都会の寓話・いねむり坂の女主人・その4

いねむり坂の女主人・その4

ヒソヒソヒソ、ガヤガヤ、ハハハハハ。

ふと何かの物音に目を覚ましました。

何か賑やかな話し声が聞こえてきました。

耳を澄ますと、ぼくの足元の床下から聞こえてくるようです。

ぼくはぐっすり眠ってしまったようです。

背伸びをしながらまわりをみまわすと、

みんな眠っているようです。

ハンスさん、イノキさんもぐっすり眠っているようです。

イノキさんをよく見ると、やっぱり人形でした。

ジャンヌさんは、というと見当たりません。

もう日は落ちていて、

青白い月明かりが喫茶室に差しこんでいました。

ガヤガヤ、ヒソヒソヒソ、ハハハハハ。

また床下から聞こえてきます。

不思議です。

普段のぼくなら怖いというのが先に立って、

すぐにでも逃げ出してしまうのですが、

この夜のぼくは明らかに違いました。

興味を覚えたのです。

この不思議な地下の物音の正体を知りたいと心臓が高鳴ったのです。

ハハハハハ、ヒソヒソヒソ、ガヤガヤ。

地下の物音があちこちに移動して、調理室のほうへ行くようです。

ぼくは足音をしのばせながら喫茶室を出て、調理室へ向かいました。

ちょっとした私立探偵にでもなった気分でした。

恐怖感はゼロでした。

喫茶室から廊下にでると、

地下の物音はたしかに調理室に移っているようでした。

廊下は真っ暗でしたが、

調理室にはいると天井の明かり窓から差しこむ月の光で

調理道具などがわかりました。

さらに床に地下に降りる床戸が見えました。

「……ははあ、あの床戸から地下に降りられるな………。」

そう考えて、床下のところへ行こうとすると。

コトコト、ギィ……。

と調度室の扉が開く音がしました。

ぼくは閉めたはずです。

ぼくは素早く大きな冷蔵庫のわきに隠れて、

息を殺しました。

物音はしないのですが、ぼくの心臓の音が聞こえます。

さっと黒い影がぼくに近づき、冷たい手の平がぼくの口をふさぎました。

『あんた、だれ?』

その声は氷のように冷たく高価な香水に包まれていました。

『・・・・・』

ぼくが黙っていると、黒い影はぼくの片腕をねじあげて、

明るいところに連れ出しました。

『アッ!』

ぼくは塞がれた口の中で叫びました。

暗い影の正体は、あのジュンコさんでした。

『ああ、きみか……!』

と言ってジュンコさんは手をはなしました。

『きみは、ここで何してるのさ』

深紅の口紅があやしく光っていました。

『床の下でへんな物音がするので、調べてみようと……』

『ふん、大胆なことしやがって』

男っぽい口調がジュンコさんの魅力をさらに引きたてます。

『ジュンコさんは、女ジェームス・ボンドといわれているそうですね』

『あら、知っているのね。そうよ、あちこち飛ばされてたいへんよ』

『…たとえば?』

『今日はギリシャのアテネにいたと思えば、明日はフランスのリヨン。

明後日はアメリカのアトランタとかね。いまは日本だけど、次はどこへ飛ばされるか、そのたびに超過勤務の連続さ。残業手当なんか出たこともない。労働基準局に訴えてやるか………。』

『ま、そんなことはどうでもいい。

で、きみはさっき床下からへんな物音がするといっていたね』

『はい。あの床戸から地下室に行こうと思いました。どうでしょうかね』

『ふむ………、あの床戸から地下室へ行こうと………、考えたわけか』

ジュンコさんは疑い深い目つきでぼくの顔をのぞき込みました。

『はい、ヤバイですかね』

『ヤバイよ。きみはスパイかね。寒い国から来たのかい』

『いいえ、とんでもない。スパイではありません。

ちょっと好奇心が強いだけの男ですよ』

『それはどうかな。うそつくんじゃないよ!』

といって、ぼくの右手を後ろ手にしてねじあげました。その痛いこと。

『イタタタタ!』

『腕を折られたくなかったら、吐くんだね』

そのときでした。

コツコツと廊下のほうからハイヒールの靴音が聞こえてきました。

『ヤバイ、誰か来るわ』

といってジュンコさんは、ぼくをまた冷蔵庫のわきに連れ戻しました。

コツコツコツと靴音は調理室に入ってきました。

ぼくたちは息を殺して成り行きをまちます。

コツコツコツ………コツ!

ヒールの音が冷蔵庫の前を通りすぎて、

床戸の上で止まりました。

ぼくとジュンコさんは、ゴくんとつばを飲み込みました。

『ジュンコね。どこに隠れていのるかわかっているのよ。出てらっしゃい』

その女性の声は氷のように冷たく殺意に充ちていました。

それを聞いてぼくは素直に出ようとしましたが、

ジュンコさんはぼくの口をふさぎ、

耳たぶを強く引っぱりました。その痛いこと。

『わかったわ、出てこないのね。

もうバトルで決着をつけるときね。覚悟しておきな!』

そう怒りの声をのこして、

コツコツとヒールの靴音は去って行きました。

『クルミだわ。ずっと行かず後家だから、焦りまくりよ。

今年からチェックマンに就任したのよ。

お屋敷のメンテナンスを統括するボス。

新任だから息がって張り切っているわけ』

そういって、ジュンコさんは手を放しました。

ぼくは耳たぶが千切れなかったのを確認して、

ジュンコさんに聞きました。

『ここにはいろんな人がいますね』

『そうよ。何人いるか、数えたことはないけど。

みんなジャンヌさんが作ったの。

一年ごとにいろんな仕事をくれるの。

それをあたいたちが演じているわけ』

『なるほど。なんとなくわかってきましたよ。

イノキさんもそうだったんだ』

『ああ、イノキね。去年までウツのひ弱な大学生だったの。

ジャンヌさんに肉体改造してもらったら、

あんなに大ぼら吹きになるなんて。やりすぎよ』

『そういえば、

さっきクルミさんがジュンコさんとバトルとか言ってましたけど、

因縁の対決ってわけですか。おもしろそう……』

『ああ、かなり過激なバトルさ』

『ひっかいたり、耳を引っ張ったりですかね』

『甘いね。まず股間をけりあげる』

『ギョ!』

『腕を引っこぬく。脚を折り曲げる』

『ギョギョ!』

『クビを引っこ抜いて……』

『ウへー!』

『目玉をえぐりだす』

『ドギャー!』

ぼくが小声で悲鳴をあげていると、

また床下から聞こえてきました。

ガヤガヤ、ヒソヒソヒソ、ハハハハハ。

ジュンコさんを見ると、

じっと眼を閉じて頭を振りながら唇を震わせています。

まるでキツネツキにかかったようです。

『ジュンコさん、また聞こえてきましたよ』

『・・・・・』

『ジュンコさん、どうしました?』

『おだまり………』

『でも、また床の下から人の笑い声が……』

『それどころじゃないの。頭の中でブラームスが鳴りだして止らないのさ』

『なんだって!』

『彼のバイオリンコンチェルトさ。

あたい去年までバイオリニストだったのよ。

あたいが作ったカデンツァが鳴っているのさ。うーん、いいね……』

ジュンコさん、もううっとりブラームスの世界です。

『こんなときに困りますよ。やめてくださいよ!』

『だめなのさ。途中で止められないの。

カデンツァの終わりまで来ないとね。もう少しで終わるから………』

ぼくはカデンツァの終わりまで待つことにしました。

ジュンコさんはまるでバイオリンを引いているように、

うっとり目を閉じて両手は見えないバイオリンを動かしています。

その優雅なこと、ぼくは見惚れてしまいました。

どのぐらい待ったでしょうか。

しばらくしてジュンコさんはうっすらと目を開けると、

ぼくにほほ笑みました。

カデンツァが終わったようです。

カデンツァを聴き終えると、

ジュンコさんはとてもご機嫌になり床下に案内してくれることになりました。

『いいかい。ぜったいにあたいから離れちゃいけないよ。

それに物音を立てず、口も聞いちゃいけないよ。

約束だよ。約束を破ったら、これだから………』

そういってジュンコさんはポケットから小型の消音ピストルをだすと、

冷たい銃口をぼくの頬にあてるのでした。

ジュンコさんの深紅の唇、

冷たい銃口。ぼくは官能と恐怖を同時に味わうのでした。

その5へつづく…

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