都会の寓話・いねむり坂の女主人・その3

いねむり坂の女主人・その3

ドタドタドタ……。

ジャンヌさんがいる調理室は廊下をへだてた向かいにありました。

ぼくの慌てた足音に調理室にいたジャンヌさんは気がつきました。

『どうしました、お客さん?』

ぼくの声は裏返っていて、しかも間違った文法で話していました。

『ぼくは、ジュンコさんに、動いたんです。笑ったら、シーッといって!』

ジャンヌさんは笑顔でやさしく答えてくれました。

『はいはい、そうですか。もう少しでできますよ』

『そうですかじゃないんですよ。ジュンコさんがシーッと笑って……』

『はいはい、笑ったのね。わかっていますよ。さあ、喫茶室でお待ちになってください。暖炉のそばが温かいですよ』

ジャンヌさんは料理をするのに夢中でいいかげんに答えるばかり、

ぼくは説明するのをあきらめて喫茶室に戻りました。

喫茶室に戻ると、ジュンコさんはもう見えなくなっていました。

ぼくはしかたなく暖炉のそばの椅子に座りました。

ぼくの向かいには、揺り椅子に深く腰掛けた大きな老人がいました。

よれよれの野良着の姿まま日本語の新聞を開いていますが、

読んでいるのか眠っているのかわかりません。

アニメの「アルプスの少女」にでてくるお爺さんに似ていました。

もちろん人形です。

小さな鼻眼鏡がずり落ちそうです。

さっき、ジャンヌさんが紹介していたハンスさんかもしれません。

暖炉の暖かさが心地よくて顔が火照ってきます。薪のゆれる炎を見ているうちに、ぼくはうとうとしてきました。ははあ、これが喫茶店「うたたね」の由来かな……、なんて考えながら眠りの中に入りそうになった、とたん。

「ギィ、バッタン!」

ドアがらんぼうに開き閉まる音がしました。

ぼくはハッと身を覚ましてドアの方を見ると、

若い男性の客が喫茶室に入ってきました。

退屈な会社をちょっと抜け出てきたといった感じです。

胸の分厚い筋肉でシャツのボタンが千切れそうです。

体育会系タイプといっておきましょうか。

まだ名前がわからないので筋肉男さんと呼んでおきますが、

さっさと早足でぼくを素通りしてハンスさんの所に来ると、

ハンスさんが読んでいた新聞を乱暴にひったくり、

ぼくの近くの席にどっかと座り、長い脚をテーブルの上にのせると、

ハンスさんから奪った新聞をひらいて、

慌ただしくページをめくり株式市場欄をのぞき込みました。

それはアッという間のことでした。

ハンスさんを見ると、両手で新聞を読んでいたままで黙っています。

鼻眼鏡は新聞を奪われたときに落ちたのか、

ハンスさんの長靴の上にありました。

ハンスさんの表情は変わりませんが、

ぼくには悲しそうに見えました。

ぼくは怒りがこみ上げました。

怒りのボールを投げつけるように筋肉男を睨みつけました。

『・・・!』

ぼくの念力を込めた怒りのボールは、

新聞を突き破って筋肉男に当たったにちがいありません。

なんだろう………と、

新聞の上から筋肉男の顔が半分だけ現れたからでした。

『こんにちは!』

と筋肉男は初めて会ったように明るい声でぼくに挨拶しました。

『・・・!』

ぼくは睨みつけたままです。

『どうかしました?』

とけげんな表情でぼくを見つめます。わかっていないのです。

『ムムムム!』

ぼくは怒りすぎると無口になる性分ですから、

精一杯にらみつけました。

筋肉男は困ったなという顔をして、

新聞をテーブルにおくと首をかしげながらこういいました。

『円高の傾向には困ったものですね、まったく……』

まるでわかっていないのです。

ぼくの怒りがまったく通じていないのです。

もう凹みそうでしたが、ここでやめれば男がすたります。

『ムムムムムムのム!』

そこへ!

『さあ、おまたせしました!』

と言いながら、ジェンヌさんがいそいそと

手押し車を押しながら調理室からやってきました。

手押し車には、美味しそうな焼き立てクロワッサンが大きな皿に山盛り、

白磁のココアカップが二つ、それに温かいココアがたっぷり入ったヤカンがありました。

『あらイノキさん、いらっしゃい…………あの、どうかしました?』

ジャンヌさんは二人の男の間にただならぬ空気を感じたようです。

ところが、イノキという男は困ったように両手をひろげて……。

『いや、べつに……』

と答えてから、ぼくを見て……。

『そうですよね?』

と、とぼけボールを投げ返したのです。

『ウウウ……』

ぼくはうろたえて答えようがありません。

この男はただ者ではありません。

さらに強烈なシュートがきました。

『イノキです。どうぞ、よろしく!』

長くて太い腕がぼくに握手を求めてきたのです。

ぼくには拒否するスタミナが残っていませんでした。

弱々しく差し出すぼくの右手は、

二倍はありそうな大きな手に千切れるほど握り絞められたのです。

『心をこめた握手は友情の証ですよ。もっと強く、笑顔で!』

『どうぞ、よろしく……』

ぼくは痛みをこらえながら、

か細い声で応えてしまいました。

ぼくは落ち込んでしまいました。

何にもかも嫌になってしまいました。

ところが、思いかけないことが起こったのでした。

『さてと』

といってイノキという男は新聞をもって立ち上がり、

ハンスさんのところへ行くと、

ハンスさんの手に新聞を戻したのでした。

ハンスさんは困ったよう様子でしたが、

黙って新聞を受け取りました。

でもこれでは読めません。

『これは失礼しました』

といってイノキという男は、

ハンスさんの足元に落ちていた鼻眼鏡をひろって、

ハンスさんの鼻にちょこんとかけたのでした。

ハンスさんの顔が微かにほほ笑んだように見えました。

ぼくの落ち込んだ心に温かい血液が流れ出しました。

ぼくはそれからイノキさんと呼ぶようになりました。

ぼくに新しい友だちができたのでした。

トクトクトク……。

ヤカンから白い陶器のココアカップにココアがなみなみと注がれます。

カップには二つの耳がついているので、それをもって飲みます。

「それでは、いただきます。」

「う~ん。うまい!」

すこし熱めですが、

香ばしいココアの香りが、口の中いっぱいに広がります。

こんなにおいしいココアは初めてです。

ココアを一口飲んで、

クロワッサンに手が伸びます。

焼きたてなのでまだ熱く手の平で転がしながら食べます。

千切ると中の空洞から甘いバターの香りがただよいます。

口に入れるととろけてしまいました。

こんなにおいしいクロワッサンは初めてです。

クロワッサンとココアは絶品でした。

なんと表現したら良いでしょう。

「最高に美味しい」、では平凡ですね。

「ゴージャスなうまさ」、いや違うな。

「とろけるようなうまさ」、これでもないな。

「頬っぺたがずり落ちるほど美味しい……。」そう、これがぴったりです。

クロワッサンをムシャムシャ、

ココアをガブガブ……。

ぼくとイノキさんは夢中で食べました。

すぐに無くなるので、お代りを注文します。

なにしろ、食べ放題ですからね。

そのたびにジャンヌさんは調理室に行ったり来たり大忙しです。

『ああ、忙しい。ああ、忙しい!』

ジャンヌさんはとてもうれしそうです。

イノキさんはとてもエネルギッシュな男でした。

話し好きなのか、ぼくは何も聞いていなのに、

ムシャムシャガブガブ食べながら喋りまくるのです。

こんな調子です……。

『いや、まさに華麗なる転身の人生です。ムシャムシャ。十五歳で難関大学を首席で卒業し、ガブガブ。すぐに哲学教授に抜擢されたが、ムシャムシャ。生徒はみんな痴呆症か頭の回転がのろくアナログでね、ガブガブ。ぼくの頭の回転はスーパーコンピュータですから、もう嫌気がさしましてね、ムシャムシャ。」

「で、たまたまテレビで見たプロレスに一目ぼれです。すぐにプロレス界へ華麗なる転身、十八でした。ガブガブ。プロレスは肉体と肉体の闘争哲学かと思ったら、ただの肉体と肉体のお芝居でした。ところが芝居がへたなのか、バックドロップスーパーブレーンバスターで脊髄を痛めて、ムシャムシャ。泣く泣くプロレスを廃業したが、肉体より強い精神は宗教とピンときましてね、ガブガブ。」

「筑波山でがまガエルと千日回峰行してアジャリとなり、ユイシキロンを看破したのが二十でした、ガブガブムシャムシャ。ところがね、宗教より強いのはウエポン、戦争兵器だとまたピンときて死の商人へ佳麗なる転身。」

「ちかごろキナ臭くなってきましたからね。忙しくなりますよ、ムシャムシャガブガブ。ウ―、ゲップ! 食い過ぎたかな。いいですか、肉体は常に鍛錬して置くべきです。華麗なる転身には、頑丈な肉体と明晰なる頭脳が不可欠です。ほれごらんなさい、この胸の筋肉がピクピク……、ほれほれ、ワッハハハ!」

とまあ、これはほんの一部です。

シャツを脱いで、胸の筋肉をピクピクさせながら、

ワッハハハの豪快な笑いはいまも耳に残っています。

チン、チン。暖炉の上にある和時計が二時の時刻をうちました。

ぼくは食べつかれたのか、眠くなってきました。

ふくらんで破裂しそうなお腹をかかえてウトウトしてきました。

グワー、ゴ―、グワー、ゴ―、ブルブルブル。

イノキさんは大きなイビキをかきながら眠っています。

ジャンヌさんが膝かけをイノキさんやハンスさんにかけています。

ぼくのところにきて、膝かけをおきながら耳元でささやきました。

『さあ、おやすみなさい。うたたねは天使の贈り物ですよ……』

そういってジェンヌさんはカウチの寝椅子にもどると、

編み物を始めましたが、すぐに編み物の手がとまり、

うとうととお辞儀してから、寝入ってしまいました………。

その4へつづく…

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