第二章・おいらのアルバイト遍歴・そのⅠ

そのⅠ・ヨイトマケの唄

本業でない仕事、

本業のかたわらにする仕事、

内職などをアルバイトというなら、

おいら人生七十年の職業遍歴はぜんぶバイトかな。

この話しはバイトとは関係ないが、話して見たくなった。

ニコヨンという言葉があった。

でどころは、終戦後に無職の人々が街にあふれた昭和二十年半ばごろ、

それを救済するために職業安定所(今のハローワーク)

が支払った定額日給が二百四十円だった。

百円札二枚を二個(ニコ)とし、

十円札四枚を四個(ヨンコ)として足してニコヨンというわけさ。

今じゃ、ちょっと割のいいバイト料なら一時間千円だから、

想像を絶する貧困時代だったわけだ。

だから、低賃金で働いている自分を卑下して、

おいらはニコヨン暮しさと嘆いたものらしい。

当時の若い男はそうやって、ナンパしたらしいよ。

去年の紅白で三輪明宏さんが歌っていた「ヨイトマケの唄」で

ニコヨンという歌詞が出てきたが、

いいかげんに生きてきたおいらにも心を打つ歌だったな。

聞いていてジーンときたが、

半分は吹き出しそうになったよ。

というのは、おいらが二十代の頃、

銀座の八丁目にある何とかというビルの地下に

「銀巴里」という洒落たカフェがあった。

軽いカクテルを飲みながら

甘いフランス歌謡曲(シャンソン)の生歌を聞かせる店だった。

みんな日本人の歌手だったが、

鼻にかかったフランス弁で汗びっしょりになって歌っていた。

枯葉、ラメール、愛の賛歌、パリ野郎など想い出すね。

そんな歌手の中で三輪明宏さんは

(当時は丸山明宏と称していた。宝塚歌劇の男装麗人みたいだった)

「ヨイトマケの唄」を歌いだしたので、おいらはビックリさ。

それまで洒落たシャンソンを聞きながら、

おいら憧れのパリジャンになって

パリジェンヌとラブシーンに浸っていたところに、

だしぬけに日本のダサイ労働者の唄だぜ。

ヨイトマケというのはね、

建物の土台作りのための建築方法だったんだ。

まず土台の土を固めるためにヤグラを組んで、

そのてっぺんにつけた滑車から重石を地面に叩きつける作業をするんだ。

その重石に何本かの縄を結んで、

それを作業員たちが揚げたり下ろしたりするんだよ。

それをヨイトマケといったんだ。

その作業は男に混じって、

男と同じ汚れた労働服の女性も多くいたんだ。

当時は戦争で旦那を失った未亡人が多かったからね。

真夏のかんかん照りのなかでさ、

照れ笑いしながら歌っていたな。

何の歌でも歌っていると元気が湧く。

ガキだったおいらも一緒に歌ったもんだよ………。

前置きが長くなったが、

その三輪さんのヨイトマケ唄の歌詞の中に、

オリジナルのヨイトマケの歌が出て来るんだ。

ちょっと歌ってみるかな。

♪オットちゃん(父ちゃん)のためならエンヤコラ、

オッカちゃん(母ちゃん)のためならエンヤコラ

もひとつおまけに、エンヤコラ♪

だったかな、

全曲を聞いてみるといい。

必死に生きる労働者の讃美歌だよ。

芋幹七十郎


 

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